今昔物語2

涸沢小屋の発展 (涸沢小屋青春期)

 

管理にあたったのは、故・奥原茂樹氏(前出、村上守氏の実兄)奥原広次の父親である。

親子ともども上高地山案内人に所属し、茂樹氏は以前、岩魚止め小屋も管理した事があった。

そして、上高地山案内人組合の所有であった小屋も、昭和33年にその営業権を茂樹さんが譲り受けた。

親子で経営し始めて間もない頃、昭和34年12月に茂樹さんが急逝、後には奥原 広次一人残された。

翌年からは、案内人組合の力を借りながら経営を続けた。

しかし、冬季間積雪が多い涸沢に建設された小屋は、各所に老朽化が目立ち始め、昭和39年に立て替えとなる。

上高地の庄吉小屋裏から切り出した資材を徳沢経由、ヘリコプターで荷揚げした。しかし、翌40年に雪の重みで新築の小屋が傾き、1年通じてこつこつと作業が進められた。ここに2代目涸沢小屋の誕生である。

 

それから間もなく、後の番頭となる義弟の、新井浩夫氏が入り、10年近く勤める事となる、市橋忠勝氏、居候の杉村隆正氏がそろい、この四人が中心に、若く楽しく、そして明るいアットホームな山小屋を作っていったのである。

 

奥原広次会長は、昭和9年安曇村島々生まれ。始めて涸沢の土を踏んだのは、昭和30年ごろ、西穂から奥穂を越えて涸沢経由で登山客を案内した時です。

その後は、歩荷仕事で涸沢によく荷揚げしていたとのこと、そして昭和34年に父と涸沢入りを果たした。

 

飛翔。そして・・・・ (涸沢小屋の現在)

 

それから数多くの人が訪れ、数多くのドラマがありました。

小屋も少しずつ古くなり、そして平成12年、3代目のの小屋を建てるため、工事に取り掛かったのです。

その中に、まだ小屋番とは似つかない、なれない手つきで大工仕事をしている新人が・・・・

現社長 芝田洋祐が必死に働く姿がありました。

芝田洋祐が涸沢に来たのは平成11年、その年のお盆に降った大雨が、その雨が彼を社長に変えてしまったのです。

当時、大手コンピュータメーカーに勤めていた芝田は、会社の仲間に誘われ、涸沢に行く事となりました。

涸沢小屋に泊まり、穂高を満喫したところで、大雨が降り道路が閉鎖されてしまった。

同行の仲間は涸沢小屋のOBで、会長と親しかったため、島々の奥原家にお世話になり、そこで奥原広次の長女、綾子さんと出会うこととなる。そして二人は結婚し、会長とともに二人三脚で小屋を運営するようになりました。

 

話が少しそれましたが、こうして3代目の涸沢小屋が平成13年に完成となりました。

 

現在の涸沢小屋は、自然が好き、山が好き、そして山が好きな人が大好きな

平均年齢26歳という若い小屋番が頑張っています。

そして穂高と穂高に訪れる登山者の為、楽しく・明るく・

何より芝田を中心に笑顔を耐えない小屋にするために日夜努力しているのです!!

 

この小屋は、今回では書ききれないほどの人たち、そして書ききれないほどの汗と涙と熱い思いが現在の涸沢小屋を作ってくれました。そして今、私達も作っていくと思います。書ききれないほどのドラマを。

 

なぜなら僕達は穂高涸沢小屋の小屋番なのですから・・・・・・。

 

現役小屋番が見たい方は涸沢のゆかいな仲間たちをどうぞ。

 

 

これからの涸沢小屋に、乞うご期待!!

 

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